TVアニメが劇場公開されることについて、ちょっと言っておきたいので   ―「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ」 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 「ストライクウィッチーズ劇場版」の雑感に添えて―

ここ数年、TV放送されたアニメが劇場作品として公開される機会が増えているとのことで→※、個人的にも同じことを感じてたんで客観的にもそうだったんだなと確認した次第。
公開される中には深夜に放送されるいわゆるマニア向けの作品もあったりして、こんなマイナーなのを劇場公開して採算取れるのか?とか余計な心配をしたくなったりもするんだけれども、ファン層がハッキリしているために動員数が読みやすく、手堅く収益を上げることができるんだそうで。
手堅く収益を上げることについては、商売だから当然だよね、というかむしろ良いものなら出せる範囲で金を出したいところではあるんですが、この秋にいくつか見た中で劇場版としてそれはどうなのよと思えるものがあったので、個別に感想を書きつつ感じたことを語るということで、2年近く放置しといたこのブログを更新することにします。

今回見たのは
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ」の前後編
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q
ストライクウィッチーズ劇場版
の三タイトル。


・「魔法少女まどか☆マギカ劇場版」
ストーリー的にはTV版とほぼ同じで、再編集してカットを差し替えたり新規に追加したりといった作りの総集編。
とはいえ前後編の合計で239分という上映時間のためか駆け足だったり端折られてるように感じることはなかったですよ。一話あたり24分として全12話で288分になるので、削られたのは50分といったところで、総集編にこれだけの時間が必要なあたり密度の高い作品だったんだなと。
ストーリーを見せる上で必要な時間は確保されているものの、TVのような盛り上がりに欠けていた印象。徐々に明かされていく魔法少女の真実や、それでもまどかが魔法少女にならざる得ない状況へとジワジワと追い込んで行く感覚、そして彼女が自らの選択で、その閉塞感を吹き飛ばすクライマックスのどんでん返しといった物語の主幹の部分を、劇場版では連続して一気に見せてしまうせいか、タメが足りないように思いましたよ。
既に話の流れを知っているという分を差し引いても、やはり週に一度の放送で数ヶ月かけて見るからこそ見る側にも積み重なっていくものがあるんじゃないのかなぁと。
TV版が好きだから劇場版も見たけど、やっぱり総集編は総集編なんでしょうかね。


・「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q
序、破と明るいエヴァというか前向きな感じが強かったのに、ここに来て突然の先祖返り。破からQの間に作中で14年経過したことにすることで、強引に方向転換したような気がするところで、個人的にこういう手法を、時間跳躍リセットとか勝手に呼んでいたりしますよ。話の展開が行き詰まった時に、その打開策として時間だけとりあえず進めてみるみたいに使われる感じですかね。 
周囲の強制→拒絶するシンジ、という構図は、まあエヴァらしいところなんだけど、結局TVや旧劇と同じところに戻って来てしまった印象。意味がありそうだけど意味がよく分からない用語で引っ張るけど、やっぱり意味が分からないあたりも、らしいところではありますが、結局最後も投げちゃってTVの焼き直しになるんじゃないかと思えてきたり。TVエヴァの後に似たような手法を用いた作品が乱立してましたが、そのひとつに本家が陥ったように錯覚しましたよ。
時間が飛んだことでシンジが混乱するわけですが、見る側としても情報が少なくて混乱するばかり。シンジをひたすら追い詰めて終わる一方で、見る側は置いて行かれる一方でした。
まあ序破Q:||(←読めない)の四部作の三作目ということで、これだけで判断することはできないのかもしれないけど、もうちょっと単体として盛り上がるようにして欲しかったところ。序破では出来てたわけですし。こんなドンヨリした感覚を抱えたまま何年後に公開されるか分からない:||(←読めない)を待つくらいなら、心身の健康のためにさっさと忘れた方がいいんじゃないかと思いましたよ。


・「ストライクウィッチーズ劇場版
二期のあと、ちょっと気持ちが離れちゃってたんで、春に公開された時にはスルー。最近になって再上映してるのを知って今更ながらに見てきましたが、これが大変良い出来でしたよ。
二期のラストで魔法力を失った芳佳のその後ということで、新キャラを投入して芳佳との価値観の対立を描きつつ、芳佳の魔法力が復活して価値観の対立も解消されるという展開。TV版の続きでありエンディングでデカデカと「つづく」と出るにもかかわらず、ひとつのエピソードとしてキレイにまとまっておりました。見終わった後に充足感に包まれながら、そうだよもっと続けよとか思いましたよ。
久しぶりに出会う501の面々が懐かしく、ロマーニャでのシャーリー&ルッキーニが活躍するところをはじめとして各所で何故か涙ぐんでしまったり。特にペリーヌが新キャラの静香が抱える芳佳への疑念を察して、彼女自身の芳佳に対する心情を打ち明けるところは、人間として一回り大きくなった姿が垣間見れて良い場面でしたよ。
仲間たちの呼びかけによって芳佳の魔法力が復活して再び空へと戻るクライマックスは感動的で、戦闘シーンも劇場版ならではの納得の出来映えでしたよ。
5分に一度は股間やお尻に迫っていくようなカットがあるのはあいかわらず。ズボン丸出しで見た目のハードルが高く、今回比較した中でもっともマニア向けであるにもかかわらず、ストーリー的な盛り上がりは定石を押さえたもので完成度のもっとも高い作品となっておりました。
春の公開の時にスルーして、盛り上がりを共有出来なかったことを後悔しましたよ。


・三つの劇場版を比較して言いたいこと。
総集編だったり、リメイク四部作の途中だったり、TV版の続編だったりと作品としての形式がそれぞれ異なるので、一緒くたに比較するのも問題あるのかもしれないけど、どれもTVで放映されたタイトルの劇場公開作なので、そのくくりで考えてみますよ。
思うに映画館まで行って見るというのはけっこう気合いが必要なわけですよ。それなりの金額を払って数十分の間、あの狭い座席に押し込められるので。それなのにそこで見せられるものが、ただの総集編だったり、なんだかよく分からない用語を羅列した挙げ句に次もあるからでそっちに投げたりじゃ、ガッカリなんですよね。
ガンダムのころなら劇場で盛り上がりを体感する的な意味で総集編の価値はあったんだろうけど、いまはネットのおかげでリアルタイムで盛り上がりを共感できるし、毎週放送されるTVならともかく、数年間隔で公開される劇場版で謎については次で、はカンベンして欲しいわけです。
公開する側も手堅く収益が上がるからといって再編集したものや完成度の低いものを何本も作るのではなく、見る側がこの作品のファンで良かったなぁと思えるようなものを作って欲しいなぁと思いました。
そういう意味ではスト魔女の劇場版は大変素晴らしい出来映え。劇場版としては今回残念な出来だったまどかについては来年の新作、エヴァについては数年後の:||ことシン・エヴァンゲリオンで挽回してくれることに期待しときます。

俺が「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」を見た上で覚えた違和感について考えてみる

容姿学業スポーツと各分野に秀でた完璧超人な妹が、妹もののエロゲ好きのオタクだったということで、インパクトのあるキャラクターによって今期の注目作となっているわけですが、個人的にどうにもこの作品に対してモヤモヤとしたものがぬぐえないので、それについてまとめてみる。
この作品には、よくできた妹がオタ趣味という一点において、父や友人といった他者から否定され、兄が尽力することで彼女を救ってあげるという構造がある。
妹を中心に見れば、ありのままの自分が全肯定される物語であり、兄を中心に見れば自己を否定され傷ついた女の子を全肯定してあげる物語となっていて、そこら辺が受けてるんだろうなというのは理解できる。
どちらの視点から見ても受け手が気持ちよくなれるように作られているわけだけれども、引っかかってしまうのが、結局は兄が妹の負の面をかぶるという形でしか肯定できていないところ。妹の18禁ゲームを全部俺のものだと言ってみたり、妹のエロ同人誌を許されない愛の代償として集めているだのと言ってみたりと。
父親と友人は、兄の嘘に気づいた上で妹のためを思って自分を捨てて必死になっているからと妹を許すわけですが、よく考えるとそれって妹じゃなくて兄を認めてるだけなんじゃないかと。
表面的には妹のオタ趣味が肯定されているように見えるにもかかわらず、その実、兄の必死さが肯定されているだけだという。
デリケートな問題を迂回しつつ話をまとめるために論点をすり替えられちゃった感じで、解決したことになってるけど、それって違くね?感が残る展開の二連発。この作品に対して自分が感じるモヤモヤは、ここに原因があるように思う。
とりあえずアニメを5話まで見た印象は以上。続きを見ればまた印象が変わるかもしれないです。

雫の乳首が解禁されたついでに「けんぷファー」は彼女を救済する物語であったという主張をする試み

雫会長の乳首券発行でけんぷファーが久しぶりに話題になってるので、これを逃したら二度と書く機会がないと思われることを書いておきますよ。
個人的にはこのケンプファーというアニメ、バカバカしいノリと雫というキャラクターが気に入って、BDは一巻から買っていました。なので今回のおまけ映像は非常にうれしいご褒美だったんですが、今回はそれについてではなく、そのとんでもなさが話題になった11話とそこで描かれた雫というキャラクターの動向について、考えながらもまとめずに放置していたことがあったので、それについて書こうかなと。放送当時どんな反応だったかは、こちらをどうぞ。
11話は実質的な最終回ということで、最終決戦を迎えつつ物語の謎が明らかにされるみたいなことになるわけですが、その出来映えたるや呆然とする代物でした。
白のケンプファーと呼ばれる第三勢力と全面対決を迎えるも、相手が名乗りを上げた直後に倒しちゃったり、なぜか臓物アニマルたちの歌う第九でパワーアップして勝利を収めたりと、超省略と超展開の連続となっていたのです。
さらに物語の核心である、ケンプファーたちを戦わせるモデレーターの意図、みたいなのも、楓のセリフによって10秒くらいで説明された上に、最後にはなぜか主人公のナツルが男と女、どちらの自分でいることを選ぶかで決着がつくというよく分からない展開*1で、無理矢理まとめたというか、ずいぶんと投げやりな話となっておりました。まあ個人的には、ここまで突き抜けたらもう受け入れるしかなくて、けっこう好きだったりするわけですが。
で、本題なんですが、そんな適当な作りでも雫の動向に注目してみると、実は彼女の大きな変化が描かれていることに気づかされたりもします。
雫は、シリーズを通してケンプファーが戦わされる意味を問い続けることで、物語を動かす重要なキャラクターです。11話の前半において消えてしまった先輩のことを語り、その復讐のために行動していることが明かされるわけですが、11話の終わりには「戦いよりもキスが大事」と復讐を投げ出してしまいます。
ここでも他と同様に投げやりな展開になっているようにも思えるわけですが、そのセリフが、ナツルが男であることを決意し、雫たちを選んだことを受けてのものであることを考えると、彼と出会い、受け入れてもらうことで復讐から解放されるという流れが見えてきます。この点おいてはきちんと結末を迎えていて、アニメのけんぷファーは、実は雫という少女を救済する物語であったことが浮かび上がってくるわけです。
まあ物語の大枠としては、やっぱり投げっぱなしだし、自分が雫に惚れ込んでいるだけなのかも知れませんが、とりあえず、おまけのシャワーシーンを繰り返し見ているうちに、こんなことを思い出したので、また忘れてしまう前に書いておきますよ。

*1:ご丁寧に「言ってる意味分かります?」と問いかけてくれますが、分かるわけないです。

アニメを語る上で読んで欲しい三冊

不定期更新化するついでに感想を書く上での種本というか、個人的に影響を受けたものを三冊ほど挙げておきます。

文学部唯野教授筒井康隆
かなり昔に読んだ本だけれども、主人公による講義という形で解説される批評理論の数々に、批評といってもいろいろなやり方があるんだなぁと感銘を受けました。本書で扱っている分野は文芸ですが、印象批評からポスト構造主義までを扱ったこれを読めば、何かを語るということについて得るものがあるでしょう。
「批評ってやつは、批評しやすいものを選んで批評する」という一文が印象に残っています。

「映画技法のリテラシーI&II」ルイス・ジアネッティ
評価の高い映画の教科書だそうで、画面の構成からカメラワーク、音楽に俳優の演技にストーリーテリングといった種々の要素について、実際の映画のワンシーンを元に解説してくれます。基本的なことは全部書いてあるとのことで、そのほとんどは同じ映像作品であるアニメにも当てはまります。
黒澤明小津安二郎といった日本の監督の作品も数多く取り上げられていて、彼らが世界的に評価される理由も分かりますよ。

「METHODS 〜押井守パトレイバー2』演出ノート 」押井守
パト2で実際に使われたレイアウトを元に、監督自身がその演出意図を解説するということで、ことに演出に関しては、「映画技法のリテラシー」を基礎編とすればこちらは実践編。
冒頭から延々と続く、自動車の中におけるカメラのアングルだったり焦点だったりの微妙な違いについての解説には、何気ない場面でもそこには莫大な情報が詰め込まれてるんだなぁと驚かされますよ。そして見る側としては、込められたものを出来うる限り読み取りたいとも。
イノセンス版もありますがまずはこちらを。amazonではプレミア価格ですが、復刊ドットコムだと定価で買えます。

それではまた。

お知らせ

不定期更新になります。
理由はアニメの感想を書く時間を別の事に使いたくなったためです。
感想を書くことに飽きたとも言えますが、別にアニメを見なくなったわけはないし、書かずにいられない何かがあれば書くつもりなので、優先順位が自分の中で少し下がったということなんでしょう。
次の更新がいつになるのか分かりませんが、このブログのことを記憶の片隅にでも留めておいてもらえると幸いです。